昭和48年02月23日 月次祭
ここ二、三日、御結界の奉仕させて頂いて頂きましたり、また私が感じましたりした事を、断片的に書いておりますのを、一つ読んでみますよ。この事からまぁ御理解を頂きたいと思うんです。東京に畑徳三郎と言う先生がおられます。教祖の直信です。その方が、東京の初代教会長である、のお言葉なんです「無体にせわしくしておると、寿命が縮まる。信仰しておかげを頂くと、嬉しゅうてたまらぬようになるぞ」と言う。
無体にもう無茶苦茶に、例えば忙しくて忙しくて、お参りが出来ないと。信心の稽古も出来ないと言う様な事をしておると寿命が縮まる。こら縮まっておることは、自分では分からん。けれども確かにそうだろうと、私は思うですね「生きたくば、信心して長生きをせよ」と仰る。寿命が縮まっておる事は、忙しい忙しいで、幾らも儲かりよるごたるけれども、肝心要の寿命が縮まりよるそれでは。と言う事ですね。
「信仰しておかげを頂くと、嬉しゅうて嬉しゅうて、たまらぬようになるぞ」と言うてられる。だから嬉しゅうて嬉しゅうてたまらんようになるから、愈々信心の稽古が忙しければ、忙しいで信心の稽古にお礼参拝に、おかげを頂かなければならんと言う事。これは畑徳三郎氏ならずとも、私もそれを実感いたします。皆さんはどうでしょうか。又お言葉に、先生の御結界に是は、何時も貼っておられたと言う事ですけれども。「心配が増したり物事に、苦を病む様になったら、信心が落ちた証拠じゃ」と。
心配が増したり物事に苦を病むようになったら、信心が落ちた証拠じゃと。それも間違いない事です。もういらいらしたり又は心配になったり、ちょっとした物事が苦になったりと言う様な時には、間違いなしに信心が落ちておる時ですから、用心しなければいけません。「信心によって、人生の過程が、はっきりしてまいります。」これは私が書いた。自分の信心というものを、どういう時代どういう時代と言う様にね。時代がありますよ。まぁご利益ばかり、おかげだけを願った信心。
愈々修行に打ち込んだ時代。そしてこんな素晴らしい事が開眼出来た、分かったという時代。それから例えて今日で言う、和賀心時代を創ると言う様な事を、言わずにおれない時代。同時にそのもう一つ上に五つの願いと言うものが、切実に願わなければおられないほどしの信心と言う。自分の人生と言うものがそういう一つの過程が、はっきりしておらなければいけません。育ったいうならば姿。二十年信心しても三十年信心しても、同じ様な状態の人があります。是では信心を頂いておる値打ちはありません。
いまだ合掌して人を拝んだ事もなく、人に拝まれた事もない者は、常に孤独の日を送っているのです。拝み、拝まれる世界こそ、和賀心時代、創造の、創るということの、第一原理であります。拝み拝まれると言う事。拝んだ事も無い人を。自分もまた拝まれた事も無い。拝みただ仲良いというぐらいなこっじゃ無い。拝み拝まれるという世界。そういう世界こそです。和賀心時代を創ると、ここで言われておる所の創造のね、創って行く所の第一原理でありますと言う。
ですから先ず自分の心のなかに、自分の心が拝めれる様に。人類の理想に向かって生きんとする者は、わが後に来たれと言う気概が必要であります。この道を行きゃ絶対の幸せ、人類の幸福と言う事。いわばと言う事がです。大きく世界真の平和に繋がっておる。本当に人間の理想に向かってです、進もうとする人は私についておいでと言えれるほどしの気概が要る。それには先ず成程と言う、私がおかげを頂いていかなければならぬ、と言う事なんです。
今日の前講を末永先生が、おかげ頂いておりました。教えを頂く守ると言う事。それを心に掛けさせて頂いておると言う事はです。その事自体が信心を育ててくれると。という意味の事を、二月の一日に二月は逃げると言う。寒修行も終わったやれやれと、信心を緩めると、折角頂きかかっておる、おかげが逃げてしまうと言う様な事になってはつまらんから、しっかりとした信心させて貰わなと言う様な御理解を頂きました。
そこで当時頂いた御理解の中に、小腹を立てるなと言う御理解を頂いた。小腹を立てるな。大腹は立ててもかんまん。けれども小腹は立てちゃならぬ。と言うのは人間が腹かくような、腹立て方はしてはならんと言う。神様が腹を立てなさるじゃろと思や、是は神様の腹立ちであろうかと思われる様な腹立ちで無からなければいけない。所謂同じ我であっても、小我を捨てて大我に生き抜くと言う事なのです。大きな我に向かって生かして頂こうと言うのです。そのことに本気で今月は取り組ませて頂いておる。
あの人は確かに時々だけど、よう小腹を立てるのです。ちょっとした事がムカッとするごたる風です。だからそれをここの、御結界に出て参っても、今月という今月はもう、絶対小腹を立てない修行をさせて貰います。現在一食修行をしておりますけれども、小腹が立つと思うた時には、もうその日は食を断たせて頂きます。あの断食もですね、一食修行をしておる時の断食は非常に堪えるです。
けれどもあえてね、そういう修行に取り組んでおるわけです。本当におかげを頂いております。だけではないそのことを行じさせて頂いておるとです。いわゆる五つの願いなら、五つの願いをさせて頂いておると、五つの願いが愈々信心の深さに導いてくれる。また、分からない所も出てくる。またそこを分かろうと努める。五つの願いと言う事を、本気でさせて頂いておる人は、本気で信心が伸びていくという体験をしておるという意味のお話をしておりましたですね。
なんかこういう風に頂いてまいりますと、信心が大変難しいようですけれども、実はそんなに難しい事じゃないです。はっきり畑先生のお言葉にもありますように、嬉しゅうて嬉しゅうしてたまらんようになると言う所まで、行かなければ。今朝から合楽の田中さんが、ご自身の誕生日のお礼を申しておられました。そして今朝方から頂いたお夢をお届けしておられましたがね。お互い一つ信心させて頂いて、水も漏らさんような信心をさせて貰う。水も漏らさんようなおかげを頂かにゃいかん。
という事は何か何時もこう、水も漏らさんと言った様な事は、難しい様であるけれども。それは丁度女の人がね、毛糸で洋服なら洋服を編むようなものだと、お夢の中に頂いた。女の方がこうやって編み物をしておる。それで一つ目が落ちたらです。また少しぐらい編んどっても、またそこまでいっぺん解いて編み直さなければおられない様に。信心の例えば生活と言うか、水も漏らさぬような信心というのは、そう言う事なんです。女の方が、毛糸編みをするようなもんです。
その編み道というものを覚えておけば、実を言うたらそんなに歯を喰いしばっておかねばならんと言った様な、薄氷の上を何時も歩いておると言った様な、冷や冷やする様な状態の事ではない。嬉しゅうて楽しゅうて、段々洋服の形が出来上がって行く事が、楽しいという信心である。という様なお知らせを頂いておられます。今日は四時の御祈念を終わらせて頂きましたら、熊本の松村さんがお参りになっておられました。
先生今度の月次祭から、何時もお祭りにもう、がつがつ間に合うか、間に合わんぐらい。もうぐずぐずしよると、説教も終わっとるち言う様な時にしか、お参り出来ませんから。折角月に四回のお月次祭ですから。これから今日からは、四時の御祈念に間に合うようにお参りをしたいと思います。そして御用でもさせて頂いたら、お祭りを頂きたいと思います。信心させて頂くものはね、矢張りそういう心掛けがなからにゃいけないなぁと言うて、そういって話した事です。
そして、お届けをなさる事の中にです。私のほうの、従業員の中に、その人と話をしておると、もう、無性に腹が立ってくる。いわゆる、虫が好かんとち言うとでしょうね。穏やかな話をしておるけれども、途中ごろになると、むらむら、むらむらと、その、喧嘩腰になろうごたる気持ちがする。そこでもう、この頃では、なんか、用を思い出したち、もう、途中の、話半ばで、話を止めて、自分が逃げることにしとりますという様な、難儀な問題があります。
もう、その人の顔見よったっちゃ、虫酸が走る。お話どんしよると、穏やかで済む話まで、喧嘩腰になってしまう。信心させて頂きよって、こんなことじゃいかんいかんと思うけれども、どうにも出来ないと、こう言うのである。けれども、人間ち言うものは、悪かとこばっかりじゃない、良かとこもあるけん、良かとこば見て、良かとこばっかり見よりゃ、良かばってんてんなんてんという言い方もありますけれどもね。それくらいのこっじゃ、やっぱ、駄目ですね。
そこでです、今日、私がここで、幾つかの事を読ませて頂いた。どれにでも当てはまることでございましょうけれどもです。本気で、信心の稽古をさせて頂く。信心とは、いわゆる、大改まりに、改まらせて貰うて、信心とは、わが心が神に向こうという姿勢と言うものがです。先ず、出来なければなりませんけれどもです。ですから、いうならばです、その、顔を見ただけでも虫酸が走る。話しよると喧嘩腰になるという様な事がです。一つ、楽しみになるような考え方をしなければいけませんよ。また、今日、あの人と話すたんべんに、お徳が受けられる。
私は、何時か、にわかで、ここの、この世の中とは全然違う。うどんなら、うどんを食ぶると、こちらで、女中さんが二人で、はぁ、十円儲かったち言うちから、えらい話よりなさる。ほう、これも、この頃一杯が、十円も取られるやろかと思うて、聞いたところが、いや、十円は持っていって貰わんならんと。二十円のもの食べたら、二十円貰わにゃならんと言ったような、仕組みになっとる国だと言うような、にわかか、何とかがありますよ。それでもう、うどんを食べよったけれども、それこそもう、腹の詰まりはせんごと、腹いっぱい食べてですね。ほらもう、五十円方も食べたと言うて、五十円貰って、喜んで帰るという様なことでしたけれどもね。
ですから、私共が、本当に信心が進んでいくというか、これによって徳が受けられる。これによって信心が進むという事を、はっきり分からせて頂いたらです。今日も、あの人と、一遍で会う方が、儲かるわけなんだ。もう、その人と、一遍でお話してから、むらむらするとば、金光様、金光様で、ずっとその、儲かるほうが、食べるとは苦しかですたい。もう、三杯も四杯も食べんならん。ばってんその、貰う方が楽しいもんじゃから、にこっとしゅうごとあるという様なね、おかげを頂いたら、松村さん、どうじゃろうかと言うてお話をした事でした。
ですから、やはり、末永先生じゃないばってん、やはり、稽古をしなければいけません。やはり、取り組むということです。それはもう、そういう気になったら、沢山ある。そういう今日は、お月次祭を仕えるとに、ここへ出てくる支度。もう、十分前だと言うのに、襖も取ってない。行き当りの十畳の電気が消えとる。ちょっと立ちゃ、御霊様にお礼をするとに立ち上がるところが、楽室の、あの私たちの控えの部屋のところの、襖が、いっぱい、開けっ放しになっておる。ここから見ると、向こうの障子が、ここへ、いっぱい開かっとる。これは、私は、必ず、これを閉めて降りてくる。必ず、信者さん、皆さんが、拝むときに、向こうが、開けっ放しに、向こうが見えると心が散るから。あそこは、必ず、閉めとかなければいけない。
行き当たりの事務室は、いうならば、あそこは、生きた活動、働きのあっておるところなんだから。事務所が消えとったら、もう、教会がしまえとるごたる。だから、あそこは、何時も、点けとかにゃいけんよと言うのに、誰かが消してある。だから、そういう事が、私の小さい、神経が小さいですから、そういう事が、いちいち気になる。ところが、その、気にはおかげにならずに、ただ、あそこ閉めときなさい。また、自分で閉めるという様なことなんですけれどもね。それでは、それだけの事なんです。それから、お祭りが始まって、ここへ座らせて頂いた。そしたら、今日は、霊神様の前の、玉串の上げてある、玉串網が、まだ、下げてない、そのままになってる。二つ出ている。一つは下げとかにゃいかん。下げとかなにゃ。
そういう時にです。私は、座っとってから、下げとらんと思う心があっては、もう、神様に、それだけ、いうならば、ちり屑のようなことであってもです。もう、心に傷が付く。下げときゃ良かところへ、まぁだ下げとらんと思う心がいけんのです。もう、相手を責める心ですから。それは、何時か、一番遠い、一万円もする、これくらいの水晶の玉と言うものを見せて頂いたという人があった。ところが、それでも、細い糸くず程の傷があった。それで、それはもう、百円方も無いという話を聞いたことがある。それこそ、玉に瑕だよと言うのは、それの事です。
だから、私共、信心の心と言うものがです。もう、本当に、何時も、玉のようにありたい。特に、神様に向かう時、ましてや、今日は、今月最後のお月次祭のお礼のお祭りをさせて頂かなければならない私が、中心であるのに、もう、ここへ座った途端に、私の心が、いわば、乱れてあっては、傷が、それは糸屑のようなものであってもね。それは、神様の前に、相済まない結果にしかならないという事を知っております。
はぁ、ここへ座ってから、もうあれが、下げてない。で、ほんなら、賛者を呼んでから、ちょいと下げなさいと言うても良いけれども。あれがあっても、心が下がらない様にです。それを、お祭りの修行とさせていただきますと思うたら、それは、心に一つも障らないことになってきた。あえて、下げなさいと言うことも要らなくなってきた。そういう心で、神様に向かうというのです。
ですから、自分の思うごつなっとらんところがね、却って、おかげを頂くことになるです。却って、それによって、いうならば、力を受けると言うか、信心が一段と進む、それは、ささやかな事ではありましょうけれども、そういう、ささやかな事が、日常の中に沢山あるでしょう。そう言うね。さっき、末永先生も言っておりましたように、本気で、家庭の円満を願わせて貰うなら、もう金輪際、人を責めないぞという事になったら、責めることは、相手の心も傷つけるなら、こちらの心にも傷が付く。責めない、また、責めんですむ心。そういう心がです。私は、段々、拝みに拝まれる生活に入っていけれる稽古だと思うのです。
ですから、そういう、小さいことと言わずに、そういう事を、心に掛けさせて頂いておる。編み物をするのに、他所を見ながらでは編まれない。やはり、手元のところを、しっかり、見つめて、目を落とさんように、編んでいかなければ、やはり、編み物は出来上がりませんように。信心もです。私共が、和賀心時代を作るという様な、大変な神願成就のことのために、奉仕をさせて頂こうという祈りを、私共は、日々、捧げておるわけである。神様の願いが成就いたしますように、この世に。
和賀心時代、それを、ここで和賀心時代を創って、その、和賀心時代を創るのにです。先ず、私自身の心の中から、頂いていかなければならないということ。そして、先ず、自分自身で責めんですむ自分自身が有難い。吾とわが心が拝まれる心。相手を傷つけんで済む、そういう心を、育っていくことの精進をさせて頂くということが、とりもなおさず、信心の稽古なのであります。
今朝からの御理解の中に、無常の風は時を嫌わんと言うが、この方金光大神の道は、無常の風が時を嫌わすぞと言う御教えがあります。無常の風に、時を嫌わすほどしの御道なのである、信心とは。いや、信心とはではない。御道の信心は、そういう信心なのである。無常の風が吹いて来よっても、それを向こうへ吹き返すほどしの、いわば、信心が御道の信心である。
そこで、私は、その事から、昨日、古屋さんの、福岡の一年の式年祭がありました。その事の時に頂きました、催すという事を頂いた。催す。私共が、例えば、御霊様のお祭りをさせてもらう時も、前々から、ずっとお取次ぎを頂いて、お願いさせて頂いて、お粗末ご無礼がないように、真心いっぱいで、どうぞと願う。そういう願いがです。たまたま、その前日、その古屋さんの甥に当たられますわけです。末永先生、それから、壱岐の末永先生、勇先生も今日、来てます。あぁ、勇先生は、昨日来ましたかね。その前の晩は、末永先生と弟の喜久雄さんと。それから、妹婿であるところの、石井信司さんと、私の光昭と、夜中まで、一生懸命、何かお話をしておる。
夜中に、私、そこへ御祈念に出てくるんです。えらい話声が賑やかですから、ちょっと覗いてみたら、お茶でも頂きながら、色々話し合っておる。今日は、もう、明日の古屋の叔父の前夜祭をやりよりますと、こう言う。そんなら、私も、かてて貰おうかと言うて、一緒に、古屋さんの、生前のお話ども、偲ばさせて頂いて、また、ひとしきり、信心話をさせて頂いたところでございました。
もう、前の晩からです。言うなら、前夜祭とを仕えてちいう訳じゃないけれどもです。もう、本当に、前の晩から、明日の御霊様との出会いの事についての、その、雰囲気と言うものが、もう出来ておる。そういう、催しに催されて、昨日のお祭りが仕えられた。有り難い。だから、私共の、心の中、または、家庭の雰囲気と言うものがです。良いものが醸されるほどしの催しと言うものが、何時も、あっておらなければならない。
笑う門には福来る。と言うのですから。笑うとは反対の、腹の立つ心には、いわば、福の神ではない、反対の神が入ってくるでしょう。そういう催しと言うものがある。例えば、ほんなら、幽霊が出ると言う。はぁ、三味線太鼓で逃げよる時に、絶対、幽霊は出はしません。三味線太鼓でこうやって逃げよるとに、幽霊の出たち言う話は聞きません。なんか、じめじめして、薄暗くて、雨がしとしと降って、条件が揃わにゃいかん。生臭い風が吹いてくると言うようなです。そういう、催しのあるところへ、迷うたのが出てくるです。ですから、勿論、有難い催しと言うものが、あっておらなければならないという事です。その、最高のものがです。拝み拝まれるという事だと。
ところが、私共は、何時も、そんなようなことではない事が、多いのに驚きます。ただ、せわしゅうて、せわしゅうて、無体に、せわしゅうしておると、自分では気が付かないままに、寿命が縮まっておる事になる。それを、気が付かずに、とにかく、せわしい、せわしいと言うて、信仰しておるおかげを受けていけば、嬉しゅうて、嬉しゅうてたまらんようになる。そういう、嬉しゅうてたまらない心がです、あなたも着いていらっしゃいという様なことになってくる。
先日から、久留米の佐田さんが、もう、思えば思うほど、ご自分の里の日田のほうが、どうでもおかげを頂かなければならない。話を聞くと、近いうちに、ご法事がある。だからもう、そういう、ご法事があると言うてもう、仏様でもしたっちゃ、絶対、助からんことを、実感して知っておる、自分も改式してみて。だから、それがもう、本当にその思われよる訳なんです。
といや、ほんに先日ですね、こんな事がありました。あの、辛島のね。あの、北川さんのお婆ちゃんの一年祭でした。ほらもう、本当に、大祭のような盛大なお祭りでした。ご親戚の方も、みんな見え、ご兄弟も、みんな見えておった。それで、私は、ここで、皆さんに、色々とお話させて頂いて、そして、御直会所に入って行った。それで、知らん方達がおられますから、あなたは、どちらで、あんなさいますかと、私が言うたら、私は、田主丸でございますち言わっしゃる。田主丸はどこですかち聞いたら、言いなさらんですもん。そしたら、熊谷さんが横に来てから、この方は、あぁた、田主丸の上行寺さんでございますよち言わっしゃる。
上行寺さんちゃ、あの、和賀心時代に出てくるでしょうが。あの、棕櫚の木が植わってる、お話が出てくるでしょうが。あそこの事なんです。私の、いわゆる、爺、婆の麦生の里の頼み寺なんですよ。そこの、坊守さんだということが分かったんです。もう、私は、本当に、水を掛けられる思いがしました。と言うのはね。ここで、御祈念中に、仏教でしておられて、信心をしておられたから、これは、助かっておられたけれどもです。助かっておる雰囲気の中に住まうことが出来なかったと。今日、このお祭りをして頂いて、本当に、おかげを頂いたという事が、頂いておりましたから。普通では、現在の仏教では、絶対、助からんばのち、ここで、話すとこじゃったでしょう。
けども、どうでしょう、お寺さんがおんなさったと言う。私は、ほんに、そん時に、お話をする時に、その事だけは、ころっと忘れておった。神様の、ほんにお働き。だから、実感としてはです。だから、ここで私が、それを、御霊様から感じ取らせて頂いておった。けども、それを、ほんなら、私が、ここで話しておったら、どうだろう。とても、金光様ちゃ、仏教のことを、あげん何時でん悪う言いござる。何時でん、言いよることは、知らっしゃらんもん。
それで、大変、良か雰囲気でですね、まぁ、おかげ頂いたんですけれどもね。例えば、そういう事を、佐田さん辺りは知ってるわけです、自分の体験の上で。人間すら助けきらんものが、仏様を助けきるはずが無いじゃないかと言うことです。そこで、先日から、ご主人に相談をされて、あちらに、お話ししに行かれました。お父さんは、そのことを、一緒に来てくれち言いよるから、とても、そげな遠いとこに、俺は出来ん。もう、一晩、寝らずに、お父さん考えた。ほんなら、私だけで行きますからと言うて、行かれた。そして、懇々と、信心の有難いことは、大体分かっておられますけれども、いよいよ、有難いことをお話された。
そこで、向こうの妹さんたち夫婦も、親も、ほんなら、ご法事も、もう取り止めてから、そうしてもらおうという事になった。お神様も、この部屋を神様の部屋にしようと言うことになった。お宮も買うてきて下さい。いわゆる、三宝八足を作らせて頂こうという気になった。昨日、あちらのご主人が参ってきておった。色々と、まぁだその、お取次ぎのし道も知らんもんじゃけん。
ところが昨日、電話が、何回もかかってきた。もう、お姉さん、本当にもう、金光様ちゃ、有難い神様だ。本気で、お祭りもさせて頂こう。本気で信心もさせて頂こうという気になったら、その頃からです。売り上げが増してきたち言う。もう本当に、有難い神様だと。しかもここでは、お届け出来なかったから、電話でちょいと、姉さんに聞いて貰わにゃおられない。
今日、ご本人、そこに参っておられますから、その通りの事です。もう、これはですね、この、五つの願いをさせて頂くようになって、特に、二月に入ってから、商売の上にも、大変、売り上げが増えておることは、皆さんが体験しておられるでしょう。でないならば、ちょっと可笑しいと思うて、五つの願いの願い直しをせにゃいけませんよ。内容を、もちっと、本気で頂かにゃいけませんよ。
ですから、そういう、例えば、おかげを頂かせて頂きながらです。吾とわが心を拝まれる。嬉しゅうて嬉しゅうてならん様になるような信心をさせて頂くことはです。それこそ、水も漏らさん信心という事になりましょうけれども。それは、難しいことではない。それは、女の方がです。やはり、こうやって、編み物をして、洋服なら洋服を編み上げていくように。目を落としたら、もう、先には進まれん。また、後戻りして、また拾い直さなければいけない様に。そういうところが分かる信心を頂かにゃいけん。
それを、こっちどん見ながら、あっちどん見ながら、こうこやりよると、結局、袖も、抜かれんようなことになってきましょう。手も抜かれんような洋服が出来上がりましょう。それではいけません。そうしてです。それこそ、人類の理想に向かって、生きんとする者は、本当の人間の幸せを、越えてない者はです。私の後ろに着いてきなさい。佐田さんじゃないけれども、それを、そう言わなければおられないほどしのです。信心を頂いていかなければならないということです。
歩いていきゃ、有難いけん、あげ行きよるけんじゃ、そんなもんじゃ、絶対、金光様の信心ないかん。無常の風が、時を嫌わずと。無常の風でもです。例えば、嫌わずとも、嬉しゅうて、嬉しゅうて、それがね、その嬉しいという心が、信心に及ぼしていくほどしのある、嬉しゅうてでなからなければ。無常の風を、例え、金光大神の道であっても、無常の風を、向こうに押し返すほどしのことには、なってこないと思うです。信心が有難うて、信心が嬉しゅうなる。
そして、拝み、拝まれるということ。そういう世界を、いよいよ、顕現していく、現していくところの信心に進ませていきよった。それも、今日はね、そういう、一番、最高の、難しいところをです。今日は、見やすう出来るという意味のことを聞いて頂きました。いわゆる、あの、松村さんの例がそうであり、私が、今日、月次祭で感じたことが、それなんです。そういう心掛けをしておくと、その事が、かえって、自分の心を有難いものにしていけれる働きが頂けれる。その実感が、いよいよ、嬉しゅうて、嬉しゅうてという事になってくるのです。
どうぞ。